上場の読者はⅠ→Ⅱ、私募の読者はⅢから。ただし本紙の設計意図は対で読むことにあります——上場の緊張は「持っている権利をどう貫くか」、私募の緊張は「売り渡した権利の対価に何を取り返すか」。
株式会社という発明の中心には、一つの交換がある——所有者は経営を専門家に譲り、引き換えに一票を受け取る。議決権とは、所有と経営の分離という近代の取引の、所有者側に残された対価である。アセットオーナーはこの票を世界で最も多く持つ者でありながら、委任の連鎖のどこかで、しばしばそれを行使できずにいる。
本紙は、両編に鏡像で置かれていた三つの補論——伝統資産編第20章の二篇(AOとAMの緊張、GPIF型設計の国際比較)と、オルタナ編第6章の一篇(行使できないLP)——を、一つの論考として束ねたものである。束ねる理由は、三篇が同じ一つの主題の三断面だからだ。委任の連鎖の中で、株主権はどこで細り、どこで消えるのか。上場株式の緊張は「持っている権利を、連鎖の中でどう貫くか」であり、私募の緊張は「最初から売り渡した権利の対価として、何を取り返すか」である——対で読むことで、初めて全体が見える。論証の足場(パススルー・ボーティング、スチュワードシップの理論、LPAC・継続ファンドの統治)はそれぞれ伝統資産編第20章とオルタナ編第6章にあり、本紙は参照のみを行う。
伝統資産編第20章の理論を日本の実務に降ろすとき、避けて通れない緊張が四つある。第一に系列の利益相反。日本の大手運用会社の多くは銀行・保険・証券の系列子会社であり、行使対象の発行体が親会社の融資先・持合い先であり、同時に自社の企業年金・投信販売の顧客でもあるという多重の関係を抱える。取引関係が行使判断を歪めうるという疑念は監督当局の公式文書にも明記されており、これが2017年の個別議案ごとの行使結果開示導入の直接の背景となった。実証の側でも、取引関係のある投資先の議案に賛成しやすい傾向は米国で早くから確認され(Davis & Kim 2007)、日本の銀行系運用機関についても同様の傾向を示す実証が近年現れている。運用会社側は「発行体との関係が壊れる」と抵抗したが、定着した今、開示は相反への最大の防波堤として機能している——発注者が要求水準を定めれば業界の水準が変わる、という統合序章の命題の教科書的実例である。2020年のスチュワードシップ・コード再改訂が行使判断への第三者委員会関与等の体制整備を求めたのも、同じ文脈にある。第二に費用の転嫁。AOは数ベーシスポイントのパッシブ報酬しか払わずに、数千社分の行使判断とエンゲージメントという労働集約的な仕事を求める。自社が費用を投じた対話の果実は他社のパッシブにも等しく及ぶというフリーライダー問題も重なり、「責任は渡すが対価は渡さない」というAM側の不満には構造的な根拠がある。第三に助言会社への集中。物理的に捌き切れない議案は少数の議決権行使助言会社へ外注され、AOがAMに委ねたはずの判断が実は二社に集中するという委任の空洞化が生じる。助言会社自身が発行体向け助言を売る利益相反も既知である。第四に方針の帰属。AOの行使基準とAMの自社方針が衝突したとき、合同運用では一本化を強いられる。パススルー・ボーティング(伝統資産編第20章)はこの緊張への技術解であり、企業年金では母体企業の取引先議案という暗黙の圧力が、委任の連鎖にさらに一層を加える。四つに共通する処方は本書を通じて同じである——開示の要求、評価への組込み、そして方針の帰属の契約化。行使の質は、発注者が求めた水準までしか上がらない。
日本のスチュワードシップ構造の最深部には、世界最大のアセットオーナーが自ら議決権を行使できないという設計がある。国家による民間企業支配を避けるため、株式の自家運用と直接行使を封じ、行使は運用受託機関に委ねる——政治経済的には正当な配慮だが、国際比較に置くと、この設計は主要国の公的アセットオーナーの中で最も抑制的な、明確な外れ値である。各国は同じ恐れ——公的資金の議決権は政治の通り道になりうる——に対し、異なる解を選んだ。ノルウェーGPFGは直接行使と徹底透明化——全行使結果の公開に加え総会前の方針事前公表まで進み、保有比率の自主上限と運用主体の独立で支配懸念を処理する。スウェーデンのAPファンド群は行使と法定上限の併用——基金を複数に分割し、単一企業の議決権10%・国内市場時価総額2%という上限を法定して、「支配的になれない規模で行使させる」。カナダ勢は統治の絶縁——専門理事会を持つ独立法人が内製で直接行使する。オランダは自前の運用子会社が行使し、委任はあっても方針の断絶がない。すなわち各国は「行使を保ったままの絶縁設計」を選び、日本のみが「権利そのものの遮断」を選んだ。
この設計の恐れが杞憂でないことは、韓国NPSが示した——直接行使への踏み込みが財閥企業への政権の意向の伝達経路と受け取られ、「政府による企業支配」批判が現実化した。米国では州政治の党派対立が公的年金の行使・投資方針に浸透する逆方向の実例が積み上がる。ただし韓国の教訓の核心は、問題の所在が行使の可否ではなく、統治の絶縁度にあることだ。NPSが躓いたのは行使したからではなく、行使の意思決定が政治から絶縁されていなかったからである。日本が遮断で得たものは中立性の外形的保証であり、失ったものは、株主権の中核を欠いた世界最大株主という非対称、行使経験と判断力の内部蓄積の空白、そして委任の先で系列相反と助言会社依存に行使が晒される構造である。GPIFがエンゲージメント評価・個別開示要求・重大な関心事項の公表といった装置を発達させてきたのは、行使できない株主による影響力の代替発明として読める。将来この設計が再検討されるなら、問いは「解禁か否か」の二値ではなく、上限(スウェーデン)×事前透明化(ノルウェー)×統治絶縁(カナダ)のどの組合せが日本の政治環境で持続可能かという設計問題になる。そしてパススルー・ボーティングの成熟は、委任構造を保ったまま行使方針だけをAO側へ取り戻す第四の中間解を、制度論に先んじて技術の側から用意しつつある。
その前に、比較が突きつける問いに答えておかねばならない——同じ恐れは欧米の公的アセットオーナーにも等しく存在したのに、なぜ日本だけが遮断を選んだのか。答えの骨格はこうである。恐れに対する設計の余白は五つあった——国外限定・分割と上限・統治の絶縁・社会的パートナー統治・そして遮断——そして他国には最初の四つを使える条件が揃っていた。第一に、法理の先行。米国では1988年の労働省見解(いわゆるAvonレター)が「議決権は年金資産の一部であり、受託者は行使に責任を負う」と明言しており、票を封じる立法は受益者の財産の没収と構成されてしまう。EUも後に株主権利指令の改正(SRD II、2017年)でエンゲージメントを義務の側に置いた。行使が義務である世界では、遮断はそもそも選択肢の棚に載らない。第二に、票の価値の非対称。分散保有の英米市場において機関投資家の票は経営を規律するほぼ唯一の装置であり、公的基金の票を消すことはガバナンス供給の柱を抜くことを意味した。対して2000年代の日本は持合いとメインバンクの世界——票が誰にとってもほぼ無価値な均衡——にあり、無価値なものを封じることは政治的に無費用だった。第三に、国内保有の幾何学。「政治の通り道」の恐れが本当に効くのは国内企業への行使である。ノルウェーは主権基金の株式を国外に置くことでこの恐れを構造的に消し(国内に投資する側の基金には保有上限を課している)、スウェーデンは国内保有があるからこそ分割と法定上限を選び、カナダはアームズレングスの制度的伝統から絶縁の型を輸入し、米国では労働側が基金の声をむしろ望んだため、政治対立は「どう行使するか」を巡って起き「行使を許すか」では起きなかった。日本は政策上国内株を大量に保有し、基金は分割されず、絶縁の制度的伝統もなかった——他国が使った余白が、すべて塞がっていた。第四に、資金の法的性格。欧米の年金資産は受益者の財産(信託)であり国家は所有者ではない。日本の積立金は2001年の財政投融資改革まで資金運用部への全額預託義務の下にあり、「国家に預けられた資金」として制度が組まれてきた。票を財産と構成する初期設定がなければ、遮断は財産権の問題にならず、行政設計の一項目として通る。
そして最深層に、正統性の在庫の差がある。労使という社会的パートナーが統治に座る基金の行使は「労働者の資本の声」と読まれる——インプット正統性の在庫が、行使を正当化する。日本の公的年金にはこの在庫が構造的にない(統合本章第1章・三つの正統性源泉)。在庫のない主体の行使は「国家の手」としか読めず、だから遮断が唯一の解に見えた。ここから、逆説の結論が出る。日本の遮断は誤りだったのではない。票が無価値な市場・預託の法的伝統・正統性の在庫ゼロという三条件の下での、局所最適だった。問題は、第一の条件——票の無価値——が持合いの解消とガバナンス改革によって消滅したのに、解だけが凍結されていることである。参照環境が動いたのに、設計が止まっている——参照点のドリフト(論考別紙〔参照点の統治〕)の、制度版がここにある。
最後に、本節の問いを一段裏返しておく。これほどの構造的非対称——世界最大の株主が、株主権の中核を行使できない——が、なぜ二十年近く、ほとんど公的な議題にならなかったのか。答えは五つの力の重なりである。第一に、この設計は公的年金の株式運用そのものを政治的に成立させるために支払われた対価であり、妥協で閉じた論点を開くことは、株式運用の正統性論争そのものを再燃させかねない——沈黙は耐力壁なのである。第二に、論じる動機を持つ主体が、制度上ひとりもいない。当事者が語れば権力拡大の要求と映り、所管官庁は再論のリスクだけを負い、市場のガバナンス改革を進める当局から見ればこの一点だけが他省の領分に落ち、行使権限を現に持つ運用会社には問題提起の動機がなく、学術は法学と金融の境界で孤児になる——委任の連鎖の頂点だけが、誰の検査項目にも載っていない。第三に、これは不作為型の問題であり、事件を起こさない。行使した失敗は事件になる(韓国NPS)。行使できないことの費用は反実仮想であり、観察も帰属もされないまま毎年静かに発生する——事件にならない失敗は、歴史を持たない(統合終章Ⅳ)。第四に、エンゲージメント評価や個別開示要求という代替装置の充実そのものが「実質は機能している」という外形を作り、本丸への圧力を抜く。第五に、「解禁か否か」という二値の語彙しか流通してこなかった——上限・事前透明化・統治絶縁という選択肢の集合が日本語で整理されなければ、問いは立てられた瞬間に「支配リスク」の一語で閉じる。語彙がなければ、問いは立たない。
この沈黙には、合理的な核がある——公的資金の議決権は政治の通り道になりうるという恐れは、実証済みの正当な恐れである(前段)。だが、その正当な恐れから「論じない」へ跳ぶことと、「絶縁の設計を論じる」へ進むこととは、別の道である。二つが混同されたまま流れた歳月は、行使経験の空白と代替装置への過剰依存という形で、すでに費用を発生させている。付言すれば、広範保有のパッシブ運用を中核とする巨大アセットオーナーには、個別企業の統治改善から得る私的便益が構造的に薄いという一般問題も重なる(Bebchuk–Hirst 2019——インデックス運用の集中と、スチュワードシップの過少供給)。誰の議題でもない論点は、最初に語彙を置いた者の議題になる。本節の国際比較は、そのための最初の一組の語彙である。
前二節は、上場株式のアセットオーナーが議決権という株主権を委任の連鎖の中でどう貫くかを論じた。本節が記すのは、私募の世界では、その問題が例外ではなく憲法だという事実である。LPは投資先企業の取締役指名にも、売却時期にも、追加投資にも、いかなる権利も持たない。しかもこれは欠陥ではなく設計だ——有限責任の法的前提としてLPは経営に関与できず、そして何より、支配権の行使こそがGPの売っている商品(オルタナ編第13章)だからである。LPに残された装置は、オルタナ編第6章のLPAC(多くの法域で受託者責任すら負わない諮問機関)、サイドレター、キーパーソン条項、現実には到達不能な特別多数決による解任、そして次号ファンドへの再コミット判断——これがLPの持つ唯一の実質的な議決権である。
利益相反の側も、上場株式の系列相反より濃い形で対応物が存在する。継続ファンドという売り手と買い手の同一代理(オルタナ編・終章⑤)、GP系列サービス会社の投資先向けフィー、クレジット部門による自社案件への貸付(オルタナ編第14章)、GPの上場が持ち込む第三の株主の利害。これらを審査するはずのLPACには捕獲という固有の病理がある——席を占める大口LPほど、コインベストの配分という利益でGPと利害を共有しており、利益相反を承認する側が利益相反を抱えている。判断のゲートキーパーへの集中は、議決権行使助言会社への集中と、委任の空洞化として同型である。公的LPにはさらに固有の緊張が加わる。情報公開法とNDAの正面衝突(CalPERSのキャリー開示問題はこの産物だった)、そして政治のESG・反ESG対立がコミット先の選定にまで浸透する構造——「公的資金の投資判断は政治の通り道になる」という懸念は、私募でも実証済みである。
そして一つ、決定的な非対称を銘記して本紙を閉じる。上場株式ではパススルー・ボーティングが「委任を保ったまま行使方針を取り戻す」中間解を可能にしつつあるが、私募にはこの解が原理的に存在しない——統治権をLPへ返した瞬間、GPの商品が壊れるからだ。ゆえに私募の現実的なフロンティアは権利の奪還ではなく、透明性の契約化(ILPA標準——行使できないなら、せめて検証できる状態を)、共同投資による選択的な統治参加、内製化による自らのGP化(カナダの解)、そしてLPの集合行為問題(オルタナ編・終章④)の克服に限られる。上場株式の緊張が「持っている権利を、連鎖の中でどう貫くか」の問題であるのに対し、私募の緊張は「最初から売り渡した権利の対価として、何を取り返すか」の問題である。同じ緊張の、より原初的な形が、ここにある。
この最後の論点——集合行為問題——が未解決のままであることは、2026年に当局の公表文書が確認した。金融庁「資産運用サービスの高度化に向けたプログレスレポート2026」(2026年7月)は、国内の主要LP投資家27機関への聴取から、日系PEファンドへの投資環境整備の要望として、報告書式の統一とILPA様式の使用慫慂(18/27機関)に並べて、「パフォーマンスが良いファンドほど、単独のLPでは交渉が難しい。……日本でも(ILPAのような)LPで共通アジェンダを設定し、議論・意見発信をする仕組みが必要ではないか」というLP投資家の声を記録した(8/27機関)。脚注はさらに率直である——現状日本に存在するのは個人資格で参加する研究会のみで、機関としての意見集約の器はない。行使できないなら、せめて検証できる状態を——その要求を束ねる器が、日本にはまだ無い。本紙が私募統治の処方の最後に置いた「集合行為問題の克服」は、当局文書の言葉では「主要なLP投資家において課題の整理や意見集約を行っていくことが期待される」と書かれている。期待される、の先を設計するのは、期待されている側の仕事である。そして株式の側では、器が動き始めた——企業年金スチュワードシップ推進協議会は、複数の企業年金が合同で運用機関のスチュワードシップ活動を検証する「協働モニタリング」を実施し始めた(中村 2026)。単独では成立しない監督を束で成立させる、集合行為の器の国内における最初の実装である。
だが、無力の目録で本紙を閉じはしない。私募におけるLPの一票は、総会の議場ではなく、次号ファンドの申込書の上にある。細り、遮られ、売り渡された権利の連なりの果てに、その一票だけは、誰にも委任できない形で残っている。本書が監督と呼んできたものの全体は、突き詰めれば、この一票を根拠をもって投じるための準備である。見て、確かめ、その上でなお為さないのなら——題辞の一句が言う通り、それはもう、構造のせいではない。